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踊るカミサン
19の時に強烈な個性を持ったダンスの指導者に出会い、大学を中退して踊りの世界に入ったウチのカミサンはワタシと結婚するまでの約十年間〝踊り子〟として生きてきた。
〝ストリートパフォーマー〟なんぞといってパリやニューヨークの路上で踊っていたこともある。
学習院大学を中退してダンサーになった変り種として (信じ難いことに彼女は学習院だったのだ)週刊誌に取り上げられたこともあった。
朝から晩まで東京で〝踊り漬け〟の日々を送っていた彼女だったがワタシと結婚し、ワタシの転勤で名古屋に移ってからは踊りから離れた。
舞台というのは音響さんや衣装さんなどの大勢のスタッフとの共同作業なので、活動の地盤である東京を離れるとその活動を続けるのは難しかったようだ。
その後、ワタシの勤務地は名古屋から富山へ、そして金沢へ移った。
金沢で、それまで勤務していた会社を辞め、独立して店を始めた。
今でこそ家具が中心の店だが、当時(14年前)はアクセサリーや雑貨、女性の衣料等もよく売れた。
夫婦で海外に仕入れに行った。
気候風土も、その地の人々も、食べ物も、それぞれの国の伝統的な素材で作られた品々も、すべてが輝いて見えた。
刺激的な日々だった。
結婚してからしばらく子どもができなかった。
我々は二人とも、子どもはできなくてもいいと思っていた。
「動物の生きる目的は繁殖だが、人間の生きる目的は幸せの追求である」
と言うのが持論だった。
子どもができたからといって、幸せになるわけでもない。
だが思いがけず、6年目に子どもができた。
彼女は妊娠7ヶ月まで海外に仕入れに行き、ムスコが生まれてからは生後3ヶ月から連れて行った。
ムスコのパスポートは5歳までに、ほとんどのページにスタンプが押された。
7年前、東京に住む彼女の父君が金沢に来た。
肺ガンだった。
金沢の済生会病院には緩和ケア病棟というのがある。
抗がん剤の投与や手術などを行わず、ガンの症状を和らげながら〝安楽なケアを目指す〟とある。
父君はそこへ入院したのだ。
彼女は店の仕事や家事の合間を縫って、園児だったムスコを連れて済生会病院へ通った。
日々の多忙に加え、治癒する見込みのない父親の病に心身が磨り減っていた。
父君は孫の来訪を喜んだ。
病状が進み、歩くことが趣味だった父君が車椅子になった。
それでも孫に車椅子を押してもらうと
「いや~、熱海のおじいちゃんたち(私の両親)に、なんか悪いなぁ・・」
と、孫を独占できる幸福に相好を崩した。
素晴らしく前向きな、希望を忘れない父君だった。
その父君も翌年の10月に他界した。
有松でスタートした店も10年で一区切り、野々市へ移転した。
野々市の店もいろいろな試行錯誤をくり返し今のスタイルになった。
子どもが10歳になった。
ついこの間生まれたのに、もう10歳だよと夫婦で話したものだが、この10年はいろいろなことがあった。
濃い10年だった。
2年前カミサンがフラメンコを始めた。
きっかけはカルチャーセンターのフラメンコ教室だったが、やっぱり・・夢中になった。
どんなに体調が悪くても稽古に行く。
身体を動かすのが辛い時は、見ているだけでもいいのだそうだ。
稽古の無い日も、我が家の畳に敷いたコンパネの上でステップの練習をしている。
カミサンの部屋からカスタネットの「カタタ、カタタ・・」という音が聞こえてくると、ムスコとワタシはまた始まった、と顔を見合わせ苦笑いをする。
カミサンはある日、自分で舞台をやる、と宣言した。
フラメンコを初めて2年。
稽古場には10年選手がゴロゴロしてるというのに。
しかし宣言してからのカミサンの行動は早かった。
会場の手配、出演者の手配、チケットの印刷、音響さんやスタッフの手配etc・・
ブルドーザーのように突進した。
そして・・
今回の会場は木工ギャラリーの「工人」さん。
会場の準備。
舞台となる場所に敷くコンパネや、借りてきたパイプ椅子を搬入したり・・
踊り子さんたちもスタンバイOK。
ムスコもスタッフで活躍・・してたかな?
会場時間が迫り、ざわざわとした雰囲気が高揚感を誘う。
なんと、会場は満席になり、ワタシを含む何人かは立見だった。
始まる前まではまではなんとか撮れたのだが、肝心のカミサンが踊っている写真がみなピンボケだ。
コンパクトカメラだかんな・・
いや、そういう問題じゃない・・
あ、そうそう、happyさんのブログで上手く撮ってもらっていた。
happyさんのブログ 「しあわせ」家族でいるために」 ・・・ 「フラメンコ at KOUJIN」
いろんな事が一段落したのかも知れない。
日々の忙しさに追われているワタシには見えなかったが、カミサンの〝女の感〟がそれをキャッチし、踊りの虫が動き始めたのだろう。